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2015年4月6日月曜日

愚直の一念

桜が咲きました。ここ中目黒本社近くの目黒川は連日大賑わいです。投稿も3回目となり何を書いて良いやら悩み、昔読んだ一冊の本から抜粋しました。チョット長いですが。

「愚直の一念」(渡辺淳一・著)

大学の授業では講義の合間によく雑談をする先生がいて、何故か講義よりその雑談のほうが印象深く記憶に残ることがある。T教授は真面目一方な先生だが、時に時間が余った時など雑談をされた。面白おかしい話ではない、ぼそぼそ自分に言い聞かすといった話し方だった。ある時、私達学生に向かって「あなた達は“愚直の一念”という言葉を知っていますか」と聞かれたことがある。私達の困惑する顔を見て「これは私が先輩から聞いた話しですがと前置きされ話始めた。
かつてといっても大正時代の大昔ですが、東大医学部には俊秀がひしめきあっており、当時の医学界では内科が中心だった為、優秀な学生は内科の研究室を希望した。この内科の医局に“呉”という新米医師が入局してきた。医学部を卒業した医師がどこの医局に入るかは本人の希望で、受け入れる医局側は、優秀な若手が入局してくる事にこしたことはないが、成績が悪くても拒む理由も無く、むしろ医局員が増えることで、医局の勢力が増すので誰でも受け入れた。そんなわけで、呉医師は内科に入れたものの、性格が地味なうえ、秀才とはほど遠かったので目立たず、いわゆるその他多勢の末席にいた。
医局に入ると先輩が付いて、ひたする臨床を覚えるのに時間を費やしますが、五年も経つと自分の研究テーマが欲しくなります。テーマは教授から与えられ、将来の学位論文に繋がるもので殆どの学生がテーマを貰っているのに、呉医師には一向にお呼びがかからない。呉医師は自分が鈍才だと承知していたから他人より遅れるのは覚悟していたものの、それにしても遅すぎると感じだした。まさか教授が自分の存在に気付いていないのではと思い、意を決して教授の前に行き「テーマをいただけませんか」と頼んでみた。教授は呉医師を一瞥し一言「ヘルツ」とだけ言った。「ありがとうございます」と深々頭を下げ、呉医師は戻ってきた。「ヘルツ」とはドイツ語で「心臓」のことである。ヘルツ即ち心臓をテーマにせよとの話で、当時、心臓の研究は迷路とされていた。一旦取り組むと、泥沼で容易に抜け出せないことから、優秀な内科医は心臓だけは避けていた。こんな難しいテーマをなぜ呉医師に与えたのか、教授の真意は解らないが、おそらくこの男にはどんなテーマを与えても出来ないだろうから、それならいっそ難しいものを、と思ったのか、あるいは自分からテーマを下さいと言ってきた態度を不遜とみて意地悪をしたのかもしれない。先輩たちは即座に無理だから教授に変えてもらうよう忠告してくれた。しかし呉医師は、出来そうも無いので変えて下さいとも言えず、文献を集めこつこつ心臓の勉強を始めた。だが大変な壁で、調べれば調べるほど解らなくなる。しかし逃げ出す訳にもいかず、同僚は次々と論文を完成させ、学位を取ってゆく。先輩、同僚、さらには後輩にまで追い抜かれても呉医師は一人ヘルツをいじっていた。「やはりテーマを変えて貰えよ」と同級生が心配して言ってくれるが、いまさら引き返すわけにもいかない。いつ出来るかなど考えず、とにかくやるだけである。昔の同情と呆れた視線の中、黙々と続ける姿勢はまさに愚直の一念と云うべきものであった。かくして十年後、彼は心臓と自律神経のメカニズムを発見し解明してみせる。誰もが駄目だとあきらめ、手を引いた鉱脈から金鉱を探し当てたのである。
それを聞いた教授さえ半信半疑だったという。それは自律神経のメカニズムを解明した輝かしい業績であった。この呉医師こそ後の東大医学部内科学部長となり学士院恩賜賞を受けられた「呉健」その人です。一気に話されたT教授は熱の入った口調で
「人間は頭が良ければいいという訳でもありません。秀才は頭が良すぎるために先が見え過ぎて、足元の偉大な鉱脈を見逃してしまいます。呉さんは、なまじっか秀才で無かったために他に目移りもせず足元を丹念に掘り起こすことが出来たのでしょう」「鈍才にはもちろん弱点だらけですが、秀才にも秀才なりの弱点があります」そして最後「人間にはやはり“愚直の一念”ということが大切です。たとえ愚かでも脇目をせず真っ直ぐに進む。そうすれば、なまじっか秀才より大きな仕事ができる。私はそう信じて、これまでやってきたし、これからもやっていくつもりです。」と結ばれた。

まさに座右の銘となる言葉と感じたものです。
若さ溢れる皆さん、少しずつ、休まず、コツコツと頑張り続けましょう。若さの特権です。
その先には無限の未来が広がっていますから。

株式会社宇佐見商店
代表取締役  宇佐見 透

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