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2016年7月5日火曜日

達人になるための極意

今日のブログは写真や画像など無く、文字のみで少し長い文章ですから、少し退屈かもしれません。前置きはよしとして、さっそく本題に入ります。
 私は何か新しい事を始めたとき、例えば、種類は問いませんが対戦ゲームを始めるとか、バイクに乗り始めるとか、自動車の運転を始めるなどしたときに、最初はもちろん上手くいきません。今でもなかなか上達しないので、これはどうしたものか、自分には適性が無いのではないかと思い悩み、モチベーションが下降してしまうのです。これが熱しやすく冷めやすい私の性質を一層助長してしまうのです。
 そこで私は必ず思い出すことがあります。「つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」という有名な一節で始まる兼好法師の『徒然草』です。これは、だれが定義したのかは知りませんが、『枕草子』と『方丈記』とともに日本三大随筆の一つに数えられる随筆です。この作品は、暇を持て余したお坊さんがダラダラと他愛のないことを書いているという類のものではけっしてなく、現代の我々にも通ずる、ひじょうに教訓的なことが書いてあります。私は中学生の時に国語の授業で習って、冒頭の一節を暗唱させられた記憶しかありませんでした。しかし、いつのことであったか、ツイッターなどのSNSで、「とてもいいことが書いてある」と持て囃されたことがあり、私も適当な出版社の文庫本を買い求めたのでした。
 さて、話が少し逸れたので戻します。『徒然草』の第百五十段に、「達人になるための極意」について書かれています。原文を掲載しましょう。


能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習らひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜なむ人、天性、そ骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変かはるべからず。


不正確で拙いかと思いますが、私が大意を訳してみます。


何か芸事を身に着けようとする人が、「下手くそなうちは、人に知られない方がいい。誰にも見られないように練習して、上達してから人前に出る方が格好がいい」といつも言っているが、このように言う人は、一芸も身に着けることは出来ない。
まだ未熟で下手くそなうちから、上手い人たちの中に混ざって、馬鹿にされたり笑われたりしても、何も気にすることなく平常心で鍛錬に励む人こそが、才能はなくても、道を踏み外すこともなく、自分勝手にすることもない。年月を経れば、才能があっても鍛錬を怠る人よりも、ついに上手の位になり、徳が身に付き、人に認められて、名を得ることになる。
天下に達人と謳われたような人でも、最初のうちは悪評があったり、とんでもない欠点があったりもしたものである。しかし、その人がその道の教えを正しく学び、自分勝手な振る舞いをしなかったために、世の中の博士として、皆の師となった。これは、どの世界でも同じである。


兼好法師は主に芸事の世界について書いているのですが、最後にもあるように、これはどんなことにも言えるのではないでしょうか。一部賛同できない部分もありますが、とてもいいことが書いてるので、私は何かに躓いたとき、必ず『徒然草』のこの文章を思い出します。
皆さんには、辛くなったときやくじけそうになった時に、心の支えとなる一節はありますか?


ジェノスグループ株式会社
中央支店 第一営業所
山元 伸哲

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